『ティム・クック』は語らない

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ティム・クックという人物にぼくはあまりにも無関心ではなかったか、ということに、アマゾンからこの本のリコメンデーションを受け取るまで気付いていませんでした。勝手な思い込みかもしれないけれど、世の多くの人は同じような目で彼を見ている、あるいはいまだに彼の存在にほとんど気付いていないのではないか(とりわけ、テクノロジー業界以外に身を置いている人々の層では)、とさえ思っています。この本は2年も前に出版されたものではありますが、スティーブ・ジョブズという稀代のリーダーを失ったアップルがその後辿った足跡とその巨大企業を引き継ぎ繁栄させてきたティム・クックという人物像の輪郭を知るには最も適した書物の一つだと思います。

 

総じて言えは、この本はティム・クックという存在を背骨としながらも、ジョブズ亡き後のアップルの変革と成長を描いたノンフィクション作品です。(おそらく)この本のためにティム・クック自身への直接のインタビューは行われず、客観的事実と公になっている彼やアップル幹部、その他関係者の発言を元に構成されています。

 

本のタイトルとなっているティム・クックについては、彼の人となりの土台を作った「アップル入社までの」彼について、本書は前半の三分の一ほどを割いて説明しています。アメリカ南部の小さな町の裕福とは言えない家庭に育ち、物静かで頭脳明晰、大学を出たあとはIBMなどでビジネスパーソンとしての基礎づくりをし、オペレーション担当としてアップルに入社、ジョブズの信頼を得て彼の後継者となるまでが描かれています。本書の残りの三分の二には、ジョブズ後のアップルが(外からはあまり注目されなかった)クックの存在感とともに綴られています。

 

本書を読むと、ジョブズの後継者としてCEOについたのがなぜクックだったのか、ということがよくわかります。人としてはあまりにも異なる部分が多い二人ですが、アップルという会社を繁栄させていくために欠かせない存在としてジョブズはクックを信頼していたし、実際その選択が正しかったということはその後のアップルの変革と成長が証明しています。

 

クックは、ジョブズがやらなかったこと(主に彼にとって興味がなかったこと)、やれなかったこと(主に彼にとって優先度が低かったこと)にことごとく着手し、実績と成功に導いてきました。慈善事業への取り組みしかり、環境問題への対応しかり、サプライチェーンの変革しかり、マイノリティーへの姿勢しかり、そういったことを通じて会社のカルチャーや社員のマインドセットを変革しつつ、テクノロジー業界をリードする一社としてアップルの名に恥じない新製品やサービスを市場へ投入し、ほぼすべてにおいて成功を収めてきました。余談ですが、本書ではたびたびアップルの市場価値(時価総額)が1兆ドルを超えたことを「信じがたい出来事」と評していますが、2021年現在、その時価総額は2兆ドルを超え、本書では「置き去りにされた組」の代表として名前を上げられていたマイクロソフトもその後変革と成長を遂げ(本ブログ執筆時点で同社の時価総額も2兆ドルを超えています)、両社は市場価値世界一を競い合っています。

 

クックは、「ジョブスのアップル」を継承したのではなく、変革しました。しかもその変革によってさらなる成長を遂げたのです。ジョブスが死の間際に4年先までのアップル製品のロードマップを示していたという話は耳にしたことがありますが、彼が無くなったのが2011年、10年前です。つまり現在のアップルは「ジョブズのアップル」のその先にいるアップルなのです。発売当初様々な議論を生み出したApple Watchは「ジョブズ後」の新製品ですが、今日の状況を見ると、アップルはこの製品によって新たな成功を収めているといえるでしょう。まさに、変革と成長を同時に実現させているのです。

 

変革の指針となるアップルの基本原則には、ユニークさはないものの企業姿勢として実にまっとうなことが列挙されています。それは彼がマイノリティーというものに対して幼少の頃より触れ、そして自身が性的マイノリティの側にいることと無関係ではないでしょう。クックは、あらゆる面で企業として、とりわけ社会への影響が非常に大きな企業としてアップルを「良識ある、まっとうな」姿勢を保つような変革を実行しましたが、それはとても意義のあることです。ジョブズほどではないものの革新性を保ちつつこれを実行できているのはクックの倫理観とリーダーシップによるものと思われます。

 

繰り返しとなりますが、クックは、ジョブスがやらなかったこと、できなかったことを成し遂げてきました。組織の立て直し、モノづくり企業としての姿勢や価値観、倫理観、義務の再定義(義務には慈善事業、環境問題、プライバシーの取り扱いなどに関するものなどが含まれます)などです。単に営利を追求するのではなく、企業というものは社会的責任を背負いながら、独創性のある提案やモノづくり、サービスの提供をしていくことによって、結果として繁栄というものが付いていくるのでしょう。クック率いるアップルはそれを証明した優れた企業の一つであると言えます。

 

第二の余談ですが、本書は最終章が上手な「まとめ」になっているので、最初に最終章を読んでから本編を読み始めるのもひとつの読み方だと思います。

 

Austin Community College, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons