ぼくがドラクエに熱中していたころ

もう30年も前になるけど二十歳のぼくはドラクエに熱中していました。ウィキペディアによれば "2000年代ごろにおけるフィーチャーフォンの待受画像1枚分相当のROM容量" 程度で実現されたこの時期のゲーム機にはプレイ状況を記憶しておく場所など用意されておらず「ふっかつのじゅもん」なる無意味な長い文字列を紙(!)に書き留めておかないとゲームを続けることができないという今から考えれば極めて不自由で横暴な世界でした。それでも寝る間も惜しんでドラクエに時間を使い続けたのは、今でいうサイバー空間への憧れとも期待ともいえる、圧倒的な世界観への没入感による興奮状態の持続からであった、と振り返ってみて思います。


当時、そんなドラクエ世界にコネクトするためには、まず家に帰る、そして、家族中を巻き込んでの「チャンネル争い」に勝ち残りテレビを完全に占拠した上で、ファミコンのスイッチを入れ、選局は2チャンネル。サイバー世界のモンスターたちと戦う前に現実世界でのバトルをクリアしなければならなかったんですね。にもかかわらず、テレビ画面の向こう側の広大なアレフガルド大陸はリアル世界のバトルや限られた生活時間を切り詰めてでも身を置きたい場所であったのでした。


時は流れ21世紀になり、サイバー空間と私たちの付き合い方や距離感は大きく変わりました。今や誰にも邪魔されず、家族とバトルなどすることなく、スマホのボタンを押せばいつでもどこでもゲームの世界にコネクトできてしまうほど両者は身近な関係になり、目の前の電柱の影にポケモンが現れることも近所の公園でモンスターボールを簡単にゲットできることも、日常の風景として違和感なく受け入れられる時代になりました。


なのですが。古い人間のぼくとしては、大方の人々がそうしているように移動時間や隙間時間をゲーム体験に費やすことには少々抵抗があるのです。全くの個人的な意見でしかありませんが、自宅でのごく個人的(ときには家族的)な時間の優先順位を変えてやる(やっていた)のがゲームであり、スマホの登場によって移動中に余剰時間ができた、つまり「新しく生み出された時間」は、ゲームによって消費してしまうのではなく、仕事やプライベートで直面している何らかの問題課題解決にあてるとか情報入手やその処理の効率化にあてるとか、そういう「せっかくのアディショナルタイムは生産的なこと、少しでもプラスになること 〜 プラスの時間をプラスの要素のため」に使いたいな、と思うのです。隙間時間にゲームをすることは少なくともぼくにとっては生活を豊かにしたり心の安らぎとなってくれるわけではなく、むしろ「せっかくの隙間時間を浪費してしまった。これならむしろボーッとしたりしてリラックスしていればよかった」という後味の悪い感覚が残ります。これはあくまで「隙間時間」のことあり、移動が長時間にわたる場合はちょっとあてはまらないように思いますし、個人的な時間を割いてイングレスのような取り組みに没頭することともまた違います。


これはまあ、年をとったせいなのかもしれませんね。やるときゃとことんやろうぜ、そうでないときは無駄に時間使わないようにしようぜ、って自分に問いかけているんだと思います。繰り返しますが、あくまで個人の意見ですからねー。