『ゼロ・グラビティ』は3D映画を変えたか

四年前、本格3D映画の金字塔『アバター』をIMAXで二度も観たのですが、自分は体質的にも性格的にも3D映画を受け付けないことがわかったのでこれまでずっと3D映画を避けておりました。そんなこともあって、予告編を観ただけでその映像美のすばらしさが手に取るようにわかる『ゼロ・グラビティ』が3D映画として高評価であることは伝え聞いていましたが、3Dの映画に興味のないぼくは、劇場に足を運ぶにしても2D版かな、などと思っていました。

過去記事: 『アバター』を観た感想
『アバター (AVATAR)』は孤高の3D映画、かもしれない

『アバター』についてもう一言だけ


ところが今朝、本田雅一さんの解説記事(『「ゼロ・グラビティ」に見る新しい3D映画の可能性』)を読んで、にわかにこの映画への興味が湧いてきました。『アバター』より格段に進歩している、あるいは一種の別次元3Dな映画かもしれない、という期待を持ったのです。先に3D映画が苦手と書きましたが、ぼくは技術大好き人間なので、技術の進歩によって3D映画がまったく違うものに進化しているかもしれない、と思ったのです。


てことで思い立ったら即実行しないと気が済まない性分で、ユナイテッド・シネマ浦和、もちろんIMAXで観てきました。


映像
すばらしい。宇宙空間の広がり、静けさ、光と影、空間を満たす真空、無重力、孤独、闇、そういった要素を映像だけで見事に表現していました。これほどまでに宇宙を美しくも恐ろしく描いた映画はそう多くありません。『2001年宇宙の旅』や『エイリアン』以来の、圧倒的な宇宙描写です。ただしそれが3Dによるものかというと、必ずしもそうではない、、、というのが個人的感想です。


2D映像を3Dへ拡張するのは誰か
ぼくが3D映画を苦手な最大の理由は、3Dという技術が映画にとって過剰演出だと感じるからです。ひとことで言えば、必要ないもの、なのです。映画は、映像以上にストーリーあるいは作者のメッセージを伝えるメディアなのであって、映像はその引き立て役だと思っています。


一方技術面からも見てみます。映画というものが生まれた時、映像は白黒で音も入っていませんでした。その後音声が加わり色はカラー化し、さらにはCG化という画期的な技術の導入によって2Dの世界の映像はほぼ完成の域に達しました。そしてその後の3D化の波。でもどうもこの、映画における2Dと3Dと間には連続性が感じられないのです。


ぼくは科学者でも医学者でもないので単に感覚的に物を言っているに過ぎませんが、ぼくたち人間は2次元(平面)の映像を見るとき、頭のなかでそいつを3次元化して捉えているのではないかと思うのです。その変換方法は個人差があるので、強制的に3D情報を目から入れようとすると、人間の持つ平面映像3次元化プロセスに過剰な干渉を起こしてしまう人がいるのかもしれません。ぼくは3D映画を観ていると何かこう、脳内の映像知覚に「何者かが割り込んでくる」感覚を持つのです。


ゲームやテーマパークのアトラクションなら楽しめても、映画となると3Dに引いてしまうのは、そんな過剰演出的な要素をぼくが感じているからです。3D技術はいい、でも、映画でやらなくてもいいじゃない?がぼくの意見。『ゼロ・グラビティ』がそんな感覚を打ち消してくれることを期待していたのですが、やはり2D→3Dという拡張は人間の脳内でやるべき仕事なのかなあ、と再確認してしまいました。今日も鑑賞途中で疲れてしまい、時折目を閉じて一瞬休む、なんてことを繰り返していました。


とはいえ、『アバター』や『ゼロ・グラビティ』クラスの圧倒的な映像を作りあげようとするなら、映画という形態をとらなければ費用面で実現が困難なのかもしれず、これって、技術の進歩によって生まれてしまった(技術の進歩がなければ「この3D技術を使えばもっとすごい表現ができる!」と気づかずに済んだのに…)、表現者の方々のジレンマなのかもしれませんね。