ノーツの効能(13) - デジタルネイティブ世代の情報共有は何か違うのか


「情報共有です」などと言いながらメガバイト級のファイルが添付されたメールを大勢に送りつけることを何の悪気もなくやってしまうのは、ロータス ノーツを使ったことがないひとに多い。「経費削減のアイデアは?」という社長室からの呼びかけを聞いたとき、いくつかのアイデアとともに「でかい添付ファイル禁止令」を一瞬思いついたけど、ノーツがないんじゃね、、、とすぐにあきらめてしまう自分。


「ストレージ容量は有限である」という感覚がGmailなどによってマヒさせられているのは確かだけれど、その視点とは別に、情報共有のあり方が崩れてきていることに気づいていないのはむしろ自分なのかもしれない、という不安がないといえば嘘になる。実際のところはどうなんだろうか?


ノーツをまったく使ったことがない同僚から「ノーツって、どんなソフトなんですか」と聞かれ、最近は耳にすることがぐっと減ってきたのでこの言葉を使うことにいささかためらいはあったが「"ウェブ2.0" みたいなもんだよ」と答えてみた。しかし、その同僚はピンと来ていないようだった。ネットワークを介して相互にコミュニケーションする、っていう感覚は、電子メールとファイルサーバーの世界では生まれないんだと思う。何度か言葉を交わした後、「ああ、Wikiみたいなもの?」という彼の理解に、まあそんなところか、とその場の話を収める。


「情報共有のあり方」に話を戻すと、添付ファイルで「情報」をばらまいて、あとは受け取った個々人が自分で管理すればいいじゃないか、っていうのが最近の流行なんだろうか。いや、情報のばらまきが20世紀からだってあったことはわかっている。ただしこれまでは、それはムダであり正しくない、と自信を持って言い切れたのだけれど、デジタルネイティブな若者はどう考えているのか聞いてみたい気もしてきた。ぼくの経験から言えば、マスターがどれかわからないコピーがそこらじゅうにある状態というのは、情報伝達ではあっても情報共有にはなってない、って思うんだけど。(マスターはこれだ、をわかった上で意図的にコピーを分散させることは効率化の面で必要なときもあるかもしれないが)