実践的教養としての『武器になる哲学』

高校から学生時代にかけて、哲学やさまざまな「思想」、心理学などに俄か熱中していた時期がありました。その頃は構造主義ポスト構造主義だと友人と酒を交わしながら語ったりすることがカッコいいと思いこんでいる輩がそこかしこで見られるという時代背景もありました。昭和末期のことです。表面をほんのちょっとなめただけなのに自分が何やら賢くなったという錯覚があって、思い返すとまあ、なんと薄っぺらい行動をとっていたものだな、と恥ずかしさが残ります。これもバブル景気の中、人々が浮ついていたお祭り騒ぎのひとつだったのかもしれません。

 

 

そんな時代から30年余りが過ぎ、ふとしたことからこの本に目がとまりました。

 

武器になる哲学』。

 

著者である山口周氏については前著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』を読んでユニークな視点から物事を捉える人だなと思っていましたが、本書は旧来の「哲学の入門書」の構造や概念をぶち壊して、「ツマラナイ哲学」から「ヤクニタツ哲学」へと再構築しているところが新しく、読んでいて痛快です。

 

哲学というと、「考えることが仕事の人たちのための学問」であり自分たちには関係ないや、と受け止められてしまうことも少なくないと思います。が、本書では徹底的にヤクニタツ、実践的なものであることを基本コンセプトとし、過去の哲学者のアウトプットよりもそこに至る思考プロセスを平易な言葉で記述しながらぼくたちの日常生活、すなわち、人としてのあり方、組織での立ち振る舞い方、社会における生き方、そして思考そのもの、という様々な「場面」に関わりを持つ哲学者の残した言葉やその背景にある意味を紹介することによって、読者に「新たな教養書に出会ったな」という感覚をおぼえさせてくれます。もちろん、哲学者の到達した「答え」が時代を超え、時間を超え、組織や社会、国家を超えて絶対的に「正しい」と単純に受け入れることは危険で、あくまで左記のような「文脈」を理解したうえでその思考プロセスを「先人の知恵」として「参考にする」(場合によっては批判してもよい)ことを身に着けておくことが必要であり、それが教養としての哲学、本書になぞらえて言えば「武器としての哲学」を手に入れることになります。

 

自分も含めて、現代日本人には教養が足りなさすぎる、と常日頃感じています。自国の文化への理解や興味も薄いと感じます。それらには現在の日本の教育システムが大きく影響していることは否めません。専門分野を追求することも大切ですが、幅広い知識と見識、すなわち教養を基礎とし厚くしていくことは、人としての視野を広げ、多くの視点や着想を持ち、より豊かな人生を送るために必要不可欠と言ってもいいと思います。個人的には、テクノロジーが生活を豊かにする派ですが、この本を読んで、テクノロジーの使い手であるぼくたち人間が、教養とテクノロジーが上手に共鳴するところを見つけていく先に明るい未来が待っているような気がしました。

 

今後も「刺激的な教養」に出会う旅を続けたい、そういう読後感を持つ本です。