『風立ちぬ』は鏡


わたくし事ですが、先月末に父を亡くしました。昭和二年生まれの父は、その青春期を太平洋戦争で過ごしました。数えきれないほどつらい思いをしてきたはずなのに、戦争について父が私に語ってくれたのは零戦の話が多かったように記憶しています。父は戦時中、零戦を製造していた中島飛行機に勤務していたようなのですが、理系で職人気質な父は零戦についていつも熱く話っていました。飛行機好きは熱いですね。


そんな父が逝ってしまった日をはさむようにして、飛行機好きの宮崎駿監督による映画『風立ちぬ』が公開されています。私はジブリ映画を欠かさず観ているわけではなく、今回もこの映画にさほど興味を持っていたわけではなかったのですが、父が亡くなったあと、「戦争」、「零戦」という父との共通点のような何かに動かされ、妻と一緒に観に行ってきました。<以後、ネタバレあり>


風立ちぬ』はいろんな意味で賛否ある作品のようですが、私が感じたのは、この映画は鏡だなということです。この映画に何か作り手のメッセージなりテーマなりがあったのかと言えば、あえて探すとすれば、それはポスターにもある「生きねば」という言葉なんだと思いますが、そのメッセージを伝えることよりも、観た者に何かを感じてもらいたい、もっと具体的に言うと、その何かというのは作者からのメッセージではなく観客自身の心の中にある「愛」に気付いてもらえるかな、ってところに期待しながら作り上げたんじゃないかなあ、と私は勝手に考えています。だから、「鏡」


戦争はこの映画の後ろに横たわっている重たい事実ではあるのですが、それはあくまで「ひたすら貧しい時代」を表現するための存在であって、映画として反戦を唱えているわけではない。全編を通して飛行機愛は感じるものの、映画全体から言うとそれが本題でもない。ひたすら夢(飛行機の設計)を追い求めてきた少年二郎が、奈緒子との結婚を決意してからは彼女との愛に生きるという大転換をし(というふうに私には感じられた)、生きることの「覚悟」を噛み締めて日々を送る大人の二郎になる、そして戦争が始まり、自分の作り上げてきた飛行機たちは跡形もなく消え去り、奈緒子も失う。それでも、「生きねば」なのですね。そしてそれは、最愛の人、奈緒子の最後の言葉として自分の夢に出てくる…。


風立ちぬ』は、貧しい時代にあってお互いを思いやる二人を淡々と綴った作品であって、作者の伝えたかった(?)メッセージを紐解こうとする対象ではないし、タバコ描写の是非を問うている場合でもない、と私は思います。二郎と奈緒子そして二人をとりまく環境や仲間、時代、そういった作品中で描かれている「作品中の事実」を自分の中にまず取り込んで、そっと胸に手を当ててみる、そこで何かを感じるかどうか、っていうのがこの映画の見方なのかなという気がしています。監督はメッセージを届けたのではなく、材料を提供した、そんな感じでしょうか。


純愛?たしかにそうですね。ラストシーンでの二郎の「ありがとう」と奈緒子の「生きて」、これがすべてかな。自分の大切な人へ思いはどうなんだ?日々をしっかり生きているか?を自分に問うてみて、心を新たにする。だから、とても良い映画だと私は思います。