『トゥモロー・ワールド』にはレノンを


2006年、フセインイラク大統領の死刑が執行された年に公開された映画、『トゥモロー・ワールド』(原題: Children of Men) を観ました。


物語の展開は、「人類に子どもが産まれなくなってしまう (原因は明かされない)」とう状況からスタートし、人類に明日がないことに自暴自棄になった民衆が暴れるさま、殺しあうさまが延々と描かれます。後半では久しぶりに子どもが産まれるのですが (これまた原因は不明)、その「事件」を通じて、人類はいったい何て愚かなことをしているんだろうとメッセージし、明日への希望を残して物語は終わります。


作品を観る前に持っていた期待は、撮影カメラの「長回し」による映像のリアリティーが半分、反戦的なメッセージをどう表現するかについての興味が残りの半分でした。結論から言いますと、前者は期待通り、後者はもうひとつ、といった印象。


トゥモロー・ワールド』は、常識を超える長時間の長回しで有名な映画ですが、その効果はというと、とにかく臨場感がある、ということに尽きます。冷静に見れているうちは自分がカメラを持っているような錯覚、つまり自分の目線からその情景を見ているという感覚でいるのですが(それ自身、すごいことですが)、徐々に自分がその場に実際にいるかのように思えてきます。特にラスト近くの戦闘シーンでは、映画の進行と自分の時計が完全に同期していました。相当な準備、リハーサルを重ねたのだと思いますが、あっぱれです。


そんなリアルな映像の中、ちょっと残念だなあ、と思ったのは出産シーン。ここも長回しで撮っているんですけど、赤ん坊の産まれ方がすごくあっさりしていて、つまりですね、「さあ、産むぞ!」という状況になってからあっという間に産まれちゃうのです。臨場感を大切している映画なのに、ここだけ現実味がないのがもったいない。キュアロン監督は出産に立ち会ったことはないのかな?


さてメッセージの方。物語後半、約20年ぶりにこの世に生を受けた赤ん坊を目にしたとたん、兵士も、暴徒もみなその破壊・殺りく行為を一瞬やめて、じぃーっとその子どもを見つめます。このくだり、心情の盛り上げ方がいまひとつなんですね。「おい、赤ん坊だぞ」、「え、まじかよ」という民衆の動揺はそれなりに表現されているのですが、自分たちのしている行為のばかばかしさを省みるための時間がないのです。赤ん坊が通り過ぎると、みな即座に戦いを開始してしまうのですが、そこに何の心の葛藤も伝わってこない。赤ん坊を見てなぜ自分たちは手を止めたのか、この静寂、この安らかな気持ちって何だろう、ということに気づくなり気づかないなり、でもそういった心の揺れみたいなものが表現されていれば、リアリティーがいっそう増すしメッセージも強まったのではないかと思っています。


なお、映画の冒頭で殺されてしまう「人類で最後に産まれた子ども」の生年は 2009 年、つまり今年ですね。この映画には、ぜひレノンの「Happy Christmas」を使ってほしかったなあ。これだけ有名な曲だから、使わなかったのには何か理由があるのだと思いますが、なぜだろう?