正しさの暴走

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Facebookのタイムラインでたまたま出会った、『正しさが暴走するこのインターネットは早急に滅ぶべきである』という投稿には、実社会やネットのそこかしこで起きている「正しさの暴走」について筆者の思いが綴られています。正しければ何をやってもいいのか、そもそも正しいって何だ、「正しいこと」の反対は「正しくないこと、間違ったこと」ではなく「別な正しいこと」ではないのか、といったようなことをよくよく考えさせられる洞察が、子供たちの一社会である学校での実話をもとに語られています。「正しいこと」であればそれがいかに暴力的であろうとも、標的となる人間がどのような状況に追い込まれようとも、とにかく正しいものは正しいのであるからして間違っていることは正さなくてはいけないのである、正しくないとされた人間は謝罪し悔い改めなくてはいけない、という正論の強要、「正しさ」の暴力が増幅し拡散するエンジンたるインターネットなどは滅んでしまえ、と筆者は言うのです。 

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ぼくは、インターネットが滅んでしまえとは思わないけれど、この筆者の言う正しさの暴走という視点には激しく共感を覚えます。それはネットのような場での個々人の言動にとどまらず、今に始まったことではありませんが、メディアやマスコミにも時として錦の御旗として「正義の味方」、「"真実"を伝える媒介者」という立場からの強烈な暴力行為が起きえます。こんなことを書いているのは、まったく時期外れではあるんですが、「STAP細胞騒動」の渦中で大変な有名人となってしまった小保方晴子さんの著書である『あの日』を知人の勧めでたまたま読んでいたところだったからなんですね。『あの日』には、小保方氏の青年期から一連の騒動の裏側までが淡々と手触り感ある文体で語られています。そこに書かれている騒動の顛末や科学的な正誤についてがどれだけ "事実" なのかはぼくには判断がつきませんが、ここでぼくが共有したいのは、その騒動のさなかで彼女が受けた暴力のすさまじさです。報道機関は一体何を大衆に伝えたかったのか、それは裏を返すと、私たちは本当に何を知りたかったのか、が「知る権利」という「正しさ」のもと極度にねじ曲がり、変質し、結果として、個人への暴力という形で、そして関係者が自ら命を絶つという事態まで発生させ、延々と暴走していたことをぼくたちは知っているべきだし忘れてはいけないんだ、と思うのです。

 

善悪という対立構造はシンプルだけれど、人の行動や世の中で起きていることの善悪なんてそんな簡単にふたつに分けられるものじゃない、とぼくは考えます。昔読んだ本で、誰の本だったかは忘れてしまいましたがそこに書かれていた今でも心に刻まれているフレーズがあって、それは、"真実" は主観的であり "事実" は客観的である(べきである)、というものです。"真実" は人の数だけあるわけで、それはある意味「正しいこと」は唯一無二のものではない、ということも意味します。日々の生活の中で正しさを盾に他人への暴力に走ってはいけないし、取材・報道という名目で "事実" を歪曲し "真実" を伝えようとすることも人として恥じるべき行為なのではないか、と最近ポツリと感じたのでした。

  

あの日

あの日

 
あの日

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