インターネット暦15年


1995年がインターネット元年だとすれば、今はインターネット暦15年だ。(いや元年はそこじゃない、という突っ込みは本題から外れるのでしないように...) なぜいきなりこんなことを言うかというと、本棚を眺めていたら村井純著『インターネット』(岩波新書)が出てきてびっくりしたから。


出版されたネット元年に読んだこの本をざっと斜めに振り返ってみると、結構おもしろい。(注: カッコ (『』) 内の文はエントリー主によるものです。書籍からの引用ではありません)


インターネットとはコンピュータ同士がつながった世界規模のネットワークである』 ・・・ ゲーム機もコンピュータの一種だよ、と指摘しているところまではいいのですが、たとえば家電がつながるという話までにはなっていません。これは、インターネットの捉え方というよりは、デジタルテクノロジーの適用範囲が想定以上に拡大してきていることをあらわしていますね。


.jp だけだと不便なことがおきるので .co とか .go とか (とりあえず) 入れてみた』 ・・・ "日本の" ネットの前身 JUNET (.junet) を世界のネットワークとつなぐときに「.jp」という名前を選択したんだけど、タイプの違う同名組織 (同署では慶応義塾大学と京王百貨店が例にあげられてましたがw) といったことで不便なので、.co とか入れることにした、って書かれていますが、最近はこれらを使わずドメイン名で吸収することも増えてますね。まあ、ちゃんと分類しようとすればするほどドツボにはまることは当時からわかっていたようで、以下の一文が笑えます。(以下引用)「ある問題をとりあえずおいたままで次の問題の解決に行く、というのがインターネットの技術の特徴」


ネット上の情報を検索することのひとつのゴールとしてウェブが生まれた』 ・・・ ネット元年ですから、ウェブが生まれたばかり。だから、ネットの情報 (≒ 大量のウェブの情報) をどうやって探し出すか、っていうところまで頭が向いていないのですね。無理はないです。紀元前のネットの情報を "検索" するために考えられたのが WAIS とか Archie という索引データベースで、でもってそれでは足りなくて「リンク」という考え方が生まれ、ウェブにたどり着いた、、そんな時代だったから。「ネット検索」の意味が当時とは違うんですね。


普遍語としての英語、なんてしばらく考えなくていいと思うよ』 ・・・ とりあえずみんな日本語でやってればいいじゃん、というのがここでの趣旨。「英語じゃなくちゃだめだ」なんて考えずに、日本人なんだから日本語でやろうよ、そのうち機械翻訳が発達するだろうしね、と。機械翻訳については楽観的に過ぎたけど、「ネット上で国境がなくなる」がある程度実現した今になって考えると、技術に頼ることなくぼくたち自身も英語への対応をしていかないと前線には踏み込めない、ということははっきりしていますね。


二時間のビデオ・オン・デマンドより短時間のビデオクリップの方が有用』 ・・・ まさにYouTubeですね。加えて、『何かを中継で流すなら、双方にしなくちゃ』はニコニコ動画で実現されています。


モバイルの実現の技術的困難さとか、回線料の高さはどうにかならないものか』 ・・・ 本書では「困ったものだ」で止まっており打開策がないようにも見えるのですが、これらの課題はすっかり解決されていますね。(個人的には、モバイルの回線料金はもっと安くならないものかと表ってますが...)


最後に、ネット時代の情報リテラシーについて言及した箇所を引用。これは、言い続けていかなくてはいけない。

インターネットによって、個人の自由な視点に基づいて新しい知識体系がつくられるようになり、それが非常に多くの人に見られて伝わっていくという可能性が高まっていくなかでは、そのようなものに対する正しい理解と認識、そして個人の責任の自覚も必要になってくるわけです。


インターネット (岩波新書)

インターネット (岩波新書)