誰による誰のための三つ星か

ミシュランによって東京に8つの三つ星レストランが誕生したとのこと。このニュースを聞いて、これって誰による誰のための評価なんだろう、ということを自分の仕事と照らし合わせてちょっと考えてしまいました。


ミシュランという世界的な「権威」が、「グローバルスタンダード」に基づいて日本立地のレストランを「評価」する。これの意味するところは、いずれの星も、日本人による日本人のための評価ではないということです。味覚という、地域依存性が高そうな部分に物差しをあてるというのは、一見すると無茶なことではありますが、別な見方をするとそれ相応の覚悟がないとできないことかと思います。その点では、権威を保ち続けているということ自体立派なんですが、私にとってこのガイドブックがどういう意味を持つかというと、(グルメやるほど私が裕福じゃない、っていう点は置いておいて...) はっきり言ってまだゼロです。「まだ」と言ったのは、現時点では、このガイドブックの評価に対する私たち日本人の評価が加わって、はじめて感じることができるのかな、と思うからです。


自分の仕事と照らし合わせて、という点で、陥りがちな罠がありることを思い出します。例として、あるソフトウェアのグローバルでの評価と日本でのそれというのは、「総論一致」であったとしても、(少なくとも日本では) 単純に翻訳すれば国内でも受けるかというとまずそのようなことはありません。とりわけ、エンドユーザーに近い部分のユーザーインターフェースでは、たとえば米国風と日本風ではウケるポイントがまるで違う。この世界での「グローバルスタンダード」は、人とコンピュータ間のインターフェースについてではなく、データの処理の仕方であったりシステム間での接続方法だったり、そういった部分が基本的な価値であると言えます。味覚と一緒で、目に見える部分の嗜好は地域性や文化が色濃く出るので、ベンダー側はその点を見誤らないようしなくてはいけない。それが分かっていても、ついつい魔法の言葉として使ってしまう「グローバルスタンダード」。誰のためのどんな部分に価値があるのかをきちんと見極めて、この言葉を使い分ける必要があるというわけです。


ソーシャルブックマークをはじめとして、「みんながいいと思うものは、たぶん、いい」という一般ピープル (大衆) による数の評価と、旧来の「権威」による評価というのは相容れないものですが、どちらにせよ結局のところ「絶対に正しい評価」というものなど存在しないわけで、ならば、両方をミックしてみてはどうか。たとえば、日本人による日本人のためのより「確からしい」評価へ近づけるために、ミシュランの東京版だったら日本人限定で同ガイドブックに収められている個々の☆評価に対する大衆評価みたいなことをやってみても面白いんじゃないかと思います。(ミシュランご自身がそれをやるとは思えませんが)