万能細胞と生命の動的平衡について


ちょっと変り種を。


今朝のニュースでビビッと反応してしまったのが、『京大の教授らが「万能細胞」をひとの皮膚から作ることに世界で初めて成功した』、というもの。『生物と無生物のあいだ』で興味を持った福岡伸一氏の三年前の書『もう牛を食べても安心か』を今ちょうど読んでいる最中だったので、とりわけビビッドにこのニュースが目に止まりました。(http://osaka.yomiuri.co.jp/eco_news/20071121ke02.htm)


『生物と...』でも言及されている、「生命とは流れのようなものであり、動的平衡状態にあるに過ぎない存在」という話は、『もう牛を...』でもすでに多くのページを割いて語られており、こちらではとりわけ臓器移植をこの「動的平衡」の観点から愚行と断じており、強く印象に残る書となっています。動的平衡論では、人間の臓器、いや、生物のあらゆる構成要素は分子のレベルで常に破壊と生成を繰り返しており、これはつまり、「生物は多くの部品によって構成されている建造物のようなものである」という考え方は正しくない、とされています。どこかの部品 (たとえば臓器、あるいはタンパク質のようなもっと小さなレベルでも) が調子悪くなったからといって、「同じ機能」を提供するほかの (他人の) 部品と交換しても、それは動的平衡状態である生物にとっては意味のないこと (本来的に、うまくいくはずのない行為) である、という説です。


上記の説に立った場合、今回の「万能細胞」ってどうなんだろう、と考えています。報道では、「自分の体からの "再生" であり、拒絶反応は起きない」、「倫理的な問題もない」とされています。もちろん、現段階では実用化までにクリアしなくてはならない課題が多く残されており、手放しで喜んでばかりいられるものではありませんが、左記2点において極めて画期的な成功だと報じられているわけです。私が考えてしまったのは、純粋に、科学的に、自分の体からの再生なら拒絶反応は起きない、そのような行為は問題ない、と本当に言い切れるんだろうか、というところが、『もう牛を...』を読んだ印象からはすっきりしなかったからです。ここで気にしているのは、「万能細胞」を生成するにあたって xxx というウイルスを使っていることの危険性がどうした、といった個々の生成プロセスのことではなく、もっとシンプルに考えて、人為的に作られた細胞を使って臓器を再生し元の体に戻すという行為は、動的平衡状態をとる生命にとって何からか「ゆがみ」のようなものを生じさせないのか、という点です。「自分の体から作ったのだから大丈夫だろう」*1という理屈も成り立つのかもしれないし、「いやいや、細胞という非常に「大きな」サイズのレベルでの議論ゆえ「生命建造物論」となんら変わりなくやっぱり愚かな行為である」、という見方もできるかもしれません。


ということで、「トレインチャンネルの砂嵐」に続く、結論のないエントリーとなってしまいました。。。。 なお、「生命動的平衡論」*2って、専門外の人間からするとすごく面白い話なので (少なくとも、私はシビれた)、ぜひ、『生物と...』または『もう牛を...』を読まれることをおすすめしたいと思っております。(それが結論かい!>自分)


もう牛を食べても安心か (文春新書)

もう牛を食べても安心か (文春新書)

*1:『もう牛を...』で言及されている「愚行」は、他の生命体からの移植についての話

*2:本を読めば分かりますが、これは別に福岡氏の提唱する独自理論ということではなくて、生物学では常識のようです。。。