『ウェブ社会をどう生きるか』では生きられない


人生最初の転職で私がロータスへ移ったのは 1995年、振り返ればいわゆるインターネット元年とされる年でした。ロータス転職の理由はただひとつで、「ロータス ノーツを作っている会社へ行きたい」という思いだけ。そのノーツに出会ったころ(つまり最初の就職先にいたころ)、私はグループウェアを勉強する中で『組織とグループウェア』という本を読み、その著者の一人である西垣通というひとの名前を記憶しました。ロータスへ転職した翌年の 96年、その西垣さんが出した『インターネットの5年後を読む』という本があったのですが、ここに書かれていたことがずっと忘れられなくて、いつか読み返そうと思って今日に至っています。同書はすでに絶版なので新品を手にすることはできないのですが、今日ふとしたことから西垣さんの名前が頭に浮かび、アマゾンで氏の書籍を検索、『インターネットの...』の代替としてこの 5月に発売になったばかりの『ウェブ社会をどう生きるか』を購入しました。


『インターネットの...』が記憶に残っていた理由は、同書がインターネットの未来を悲観的に捉えていたからです。もちろんいろんなことが書かれていたのですが、私の心に刻まれているのは「インフラとしてのインターネットはそのうち破綻する」というくだりでした。すでに手元に同書がないので読み返すことはできませんが、当時の私の理解はそうでした。95年、96年と言えばインターネットが普及し始めたころで、また "マルチメディア" の走りの時期でもありましたが、「ネット上を流れるデータや処理にインフラとしてのインターネットが追いつかなくなる」、というのが文意だったと思います。この本を半ば盲目的に受け入れた私は --当時は今以上にひねくれ者だったので、他人が賞賛するものはまず否定的に捉えることを好んでしていました-- インターネット肯定派の先輩と激論を交わしたものです。その先輩はこう言いました。

「大丈夫、インターネットは従来の中央集権的に管理されてきた事物とは異なるやり方でこれまでも成長してきたし、今後も続く」


果たして、インターネットは破綻しなかった。少なくとも、96年から数えて 11年たつ今日現在、破綻はしていません。私は『インターネットの...』を通じて、時代が大きく変化している中においては、論理の積み重ねでは説明のつかない楽観的な物事の捉え方というか、見えざる意思が存在すると考えることも必要なのだな、ということを逆説的に教わったように思います。


さて、今回の『ウェブ社会をどう生きるか』です。この本、明らかに梅田望夫さんをはじめとするネット楽観主義的指向に待ったをかける目的で書かれていますね。たしかに、様々な考え方があってこその人間社会であるし、特定の思想に傾倒して盲目的になるのは危険だということもよくわかるので、こういった本を書く意義は十分に理解できますし重要だと思います。実際、同書の中でも「なるほど」と思わせる記述が随所にありますので、ためになる部分も多いです。これは否定しない。ですが、「なんか気に入らない本」でなのであります。その理由を以下で考えてみました。


正面切ってネット楽観主義に警鐘を鳴らしている割には、おそらく、西垣さんはネット社会を研究室から見ている。同書の中で知識の習得手段として東洋的な「しみ込み型」("習うより慣れろ" とか "先輩から技を盗め" といった教授法。暗黙知的な知識伝承とも言える)と西洋的な「教え込み型」(体系化され要素を計画的に頭脳に記憶させていく方法)を比較し、ネットによる検索型社会は「教え込み型」を助長し、人間の健全な知識育成にマイナスとなる要素が多くある、と警告しています。たしかにここだけ取り出せば、見るところがある意見だと思います。先日の新聞で「コピペ思考」というコラムを目にしましたが、最近の学生はネットで検索したものを切り貼り(コピペ)し見かけ上の再構成をすることによって "考えたつもり" になってしまう傾向があるとあると指摘されていました。まったくそのとおりだと思います。しかし、『ウェブ社会を...』で西垣さんが批判している、"ウェブ礼賛論者たち" が住んでいる世界を、氏は外から見て、つまり「教え込み型」知識の範囲で評しているようにしか思えないのです。ネット最前線で起きている事象を記述する氏の筆は、私の目には「コピペ」的であり、伝聞調に映るのです。*1


西垣さんが全面的にインターネットやウェブを否定しているわけではなく、むしろこれからの社会に必要不可欠と考えており、また、「Web 2.0」的分散社会の有用性に大筋において理解を示していることは本を読めば分かりますので、そこは良い。残念なのは、『ウェブ進化論』にあまりに過剰に反応しすぎている点です。お互いまったく反対のことを言っているわけではないと思うので、そういう意味で、私のような読み手に「正面切った批判本」*2と捉えられないような内容にすべきではなかったか、と思います。梅田さんがネットとビジネスの最前線に、西垣さんが大学社会に生きているという環境の違いが、少なからず上記のすれ違い*3に影響しているのではないでしょうか。惜しい。


ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

*1:余談ですが、ネット至上主義者に対して「人工知能の幻想を再び見ているのではないか」的な批判的な文章があり、そこでスピルバーグの「A.I.」が引き合いに出されていました。「A.I.」は人工知能の話などではなく、究極の母子愛の話(だと私は理解している)であって、そんなことは映画を見れば分かるはず。きっと氏は映画をちゃんと見ていないのでは?

*2:しかも、直接的に批判している点の多くは "研究室から見た" 誤解に基づいたものと思われ、以後の文章がある意味からまわりしている

*3:梅田さんはネット至上主義でも単純なウェブ礼賛者でもウェブ集合知至上主義者でもないと思うんですけど...