なぜ走るのか、についての考えと。


5年前の夏に、健康のためにとランニングを始めました。その年に応募した東京マラソンでいきなり当選し出走できたという幸運も手伝って、走る楽しみを覚えて薄く長く続けています。



ぼくが走る目的は健康なので、必要以上に身体に負担をかけないことを心がけています。Nike+の無料アプリとiPhoneで走行距離やペースの記録をとっていますが、これはあくまで客観的なデータを残すためであって、距離やタイムで目標を立てて身体をいじめるようなことはしていません。自分ももうアラフィフだし競技ランナーってわけでもないので、運動の楽しみ方をそこへ持って行ってしまってはいけないと思ってるんですよね。健康に役立っているという感覚(=無理のないペースとコンディションで走っているという自覚)があれば目標タイムの設定も達成感すらも必要なく、ただただ、走り終えた時の脱力感爽快感だけで十分満足なのです。



Nike+のアプリを使っていると上では書きましたが、このアプリ、実は嫌いです。


うまく言えないのですが、運動やそこに付随する何かを強要されているように感じてしまうのです。ぼくは単純にデータの記録を手軽にとっておきたいだけなのに、「もっと長く!もっと速く!!」とランナーをけしかけ、芸能人の声まで導入して、ほんとやかましい。「運動=正義」みたいな図式でとにかく押し付けがましく煙たいのです。こちとら競技としてではなく健康増進、体調維持が目的なんだから、「運動する人はみんなタイムとか距離とか目標立ててステージを上がって行きたいと思ってるはずだ」と決めつけられちゃうと、かなわんよなー、なのです。(念のため書き添えますが、目標立てたりステージ上がって行きたいという考え方があること自体はもちろん尊重します)


Apple Watchがどんな体験をさせてくれるか出荷されるまではわからないけど、腕時計のシェイプがあれじゃいかんだろとか言う以前に、「運動=正義」な空気をプロモーションビデオに感じちゃいましてちょっと引いております。(これが言いたかったわけですが)